「ヒカ…く……」
奥のベッドの上には極限まで目を見開いた彼女。
肩まで蒲団を被ってるけどその下は真っ裸なのは明らかだ。
そんな、隠したって今更だろ、と思うけど、状況を考えると
隠したくなるのも無理はない。
怒鳴ろうかどうしようかと迷ったけど、最初のタイミングを逃した時点で
それはもう無理だと分かってもいた。
碁を長いことしてると、日常生活でも結構先々の手まで考えちゃって
何も考えずに怒るとか泣くとかが出来なくなってきたりしてる。
それは棋士全般に共通する事なんだろうか。
少なくともこの場にいるもう一人の棋士……そして部屋の主である
塔矢アキラも、上半身裸のまま冷静な顔を保っていた。
三人三様無言で固まっている。
ただ、彼女はまっ赤になって小さくかたかたと震えていて、こんな時なのに
可哀相だと思った。
逆に全く平常と変わらず、ただ無言なだけの塔矢はどうかしている。
「……服、着ろ。そんで出てけ」
取り敢えず話をしなきゃならない。
けど、今三人で話すのは無理だ。
だから彼女を排除する事にした。
同僚と彼女に裏切られて、なのに仕切らなきゃ、何とか場を収めなきゃって
頑張っちゃってるオレ。何か滑稽。
彼女が服を着る間、外に出てようかと思ったけど
その間二人きりにするのが嫌だったからオレはその場に居座った。
でも、オレじゃない男の前で肌を曝すところを見なきゃいけないってのも
きついものがある。
彼女も、(それぞれには裸を見せているとは言え)二人の男の前で
服を着るのは辛いだろう。
けど、それくらいは我慢して欲しい。
それだけの事をしたんだから。
しゅ……しゅ…
しばらく経って漸く彼女が動き出した。
苦しげな息づかい、微かな衣擦れが部屋中に響いて目のやり場に困る。
困って台所の辺りをきょろきょろ見ていたら、ふと塔矢の姿が目に入った。
オレと同じように、いやそれ以上に困ってる筈なのに、そうあるべきなのに、
あいつはすごい普通の顔で彼女の方を見ていた。
ぼうっと日常を見つめているようにも見えた。
...
おい、まだ、オレのオンナだぞ。
他人のもんじろじろ見んな。
オレが睨んでいると、気付いてゆっくりこちらに顔を向けたけれど
その表情は気まずそうでもなければ睨み返して来るでもない。
何故睨まれているのか、本気で分からないって顔。
絵でも見るように、純粋にオレの顔の造型でも観察してそうな顔。
今度こそ本気で、我を忘れた。
「やめてっ!ヒカルくん、やめて!」
腕に重みを感じるまで、ほんの一、二秒だけど記憶が飛んだ。
塔矢は顎を手で押さえて、壁にもたれ掛かっている。
オレの手が力無く降りると共に、
彼女は俯いたまま「ごめんなさい」と言って足早に出て行った。
最後までオレと目を合わせなかった。
泣いているみたいだった。
全く化粧をしていなかった。
もし塔矢が女だったら、こんな場面でも悠々と、きっちり化粧をして
出て行くだろうな、なんて脈絡のない事を何故か思った。
「……で?」
ばたんと、スチールのドアが自動的に閉まる音を聞いてから声を出す。
「何」
「こっちのセリフだ。何か言う事あんだろ」
「別に」
「はぁ?」
ほんっと、コイツのこういう感覚は信じらんない。
平常心って範疇を楽々越えてる。
でもこっちが熱くなったらおしまいだ、いいように丸め込まれるってのも
分かってる。
「何を言っても言い訳になるだろう。だから何も言わない。
キミが見た通りの事だよ」
最後に見た彼女の横顔を思う。
きっともう会うことはないだろう。
オレが許すと言ったって、戻ってくるようなヤツじゃない。
そんな彼女を、寝取った塔矢が憎い。
勿論、オレと塔矢が知り合いだって事を知った今、
彼女が塔矢と付き合う事ももうないだろうけど。
それより。
「……あかりはどうしたんだ?」
「フられた」
そう、前にも似たような事があった。
一時幼なじみのあかりと付き合ってたんだけど、アイツは
塔矢と付き合う事にしたと言って、オレを捨てたんだ。
オレを捨てたんだ。
塔矢を選んだんだ。
というより、
塔矢が、オレから、あかりを盗ったんだ。
「嘘吐け!」
「……」
「なんなんだ?テメエは」
「何って……」
「なんで、なんでいっつも人のもん欲しがるんだよ!
そんな事しなくたって十分モテるんだろ?若先生」
そう。
コイツの、こういう質の悪さに気付いている人間が何人居るだろう。
金持ちで
親は大物。
稀な美貌と言われる頭の中には
天才と呼ばれる頭脳。
塔矢が望んで手に入れられないものなんて、きっと何もない。
それなのに、いや、だからこそというべきか。
コイツは他人のモノを奪うのが大好きなんだ。
そう言えば昔から、オレが欲しがっていた碁盤を先に買ったり、
オレに振られた対談の仕事を横取りしたり。
思い出せばキリがない。
今まではそれでも何とか偶然と思おうとしてたけど
今日はっきり分かった。
塔矢は、オレと趣味がカブってるんじゃない。
ただ、他人のモノが欲しいだけなんだ。
「どうなんだよ!え?」
「……」
塔矢はまだ横を向いたまま、微かに眉を顰めている。
どんな言い訳をするのか楽しみだ。
いや言い訳なんて出来ないだろう。
残酷でしかも自虐的な、なんて不毛な感情。
やっぱり塔矢はしばらく黙っていたけれど、
それでもやがて、
「……そう思われるのは、不本意だ」
半分以上さっきみたいにはぐらかされると思っていたので
言い返されて狼狽えた。
「だって、そうじゃんよ。ショーウィンドウに並んでる物なら苦もなく手にはいるから
他人の箪笥漁ってんだろうがよ」
狼狽えて、思ってる以上にキツい言葉が出た。
「その気になりゃ、手に入らない物なんてないって事を証明したいんだろ?
他人の心だって、他人の女だって!」
「……」
「……」
言い過ぎた、と思ったときには
塔矢は泣いていた。
涙こそ流していないが、泣いている顔だった。
驚いた。
塔矢がこんな顔するなんて。
いい気味だ、
何て事言っちゃったんだ、
自業自得、
珍しい物見たな、
コイツが傷つくなんて、
そんな顔する位なら最初から、
いやこれも演技だろ、
苛立ちに色々な感情が混ざってマーブル模様になって
その渦に呑み込まれそうになる。
数秒見つめ合い、どうしようどうしようと頭が真っ白になった所で
唐突に塔矢の表情がすっと消えた。
「……そうだね。ボクが望んで手に入らない物なんて、」
ずず、と足を引きずるように一歩踏み出す。
その動きと表情が何だか怖くて、オレは思わず一歩退く。
「ないかもね」
んだよ、怒ってんのはオレだよ、さっきまで場を仕切っていたのも。
そう思いながらもまた一歩迫られて、一歩退く。
「ボクは確かに、沢山奪ったかも知れない」
裸のままの、白い上半身がゆらりと不自然に揺れる。
オレは部屋の奥に追い込まれる。
「けれど、キミ以外の誰かの物を、欲しがった事があったかい?」
膝裏がベッドに当たってバランスを崩す。
さっきまで彼女が寝ていた、まだ湿ってそうなシーツ。
「ボクが一番欲しいモノは」
聞きたくない聞きたくない、
その先はきっと、恐ろしすぎる言葉だ。
「……×××××××」
部屋の中の空気が一気に濃密になり
意識が遠のく気がした。
-了-
※昔もこんな話書きました。確か。
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